季節を戻る旅

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季節を戻る旅
(季節をめぐる旅シリーズ1)




 季節を戻ってきました。
 どんなに世界が広く、多彩な文化に満ちていようとも、季節は必ず春を経て、夏へと移動してゆきます。その春や夏が、どんなに短く気づかないほどだとしても。
 けれど今回、季節を戻る旅へと行ってきました。青葉あふれる初夏の街中から、まだ春の花々が咲いている山の村へと移動して。
 もっとも、そのことに気づいたのは、旅をしている最中なのですが。

 春もすっかりと終わり、夏が始まりかけた頃、少々仕事で疲れた体と精神を休めるために、山奥の峠の間にある小さな村へと向かうべく、電車に乗って出発した。その村を選んだのは、ただ人が行かなそうな人気のない場所だと思ったからである。にぎやかな観光地に行きたい気分ではなかったのだ。
 実際、宿も電車もすぐに取ることができた。乗った特急列車の車両も、あまり人は乗っていなかった。わずかばかり乗っている人々も、おそらくは30分ほど手前の駅で降りて、小京都と呼ばれる町で降りてゆくことだろう。

 元気がある時ならば、列車の中では、本でも読んで時間を過ごせるはずなのに、頭も心も疲れ切っているためか、好きなはずの本も読む気にならず、今回の旅行は、頭も体も休めるためなのだから、と自分に言い聞かせつつ、電車に乗ってからずっと、ぼんやり窓の外に目を向けていた。気分がなんとなくのらないとは、こういう精神状態のことを言うのだろう。

 それでも街を抜け、電車が山間を走るようになると、新緑のみずみずしい若葉色が、妙にまぶしく、そして心地よい新鮮さを持って、心に感じられるようになってきた。
 街では木々が新緑に変わっていたことなど気づかなかった。街路樹は、どうだっただろうか。
 こうして自然を楽しめる感情が、自分に残っていることを確認し、少し安堵する。まだ疲れも限界を超えてはいないようだ。これなら少し休めば、また元気になりそうな気がしてくる。
 だから今は、もっと休まないと。
 そう自分に言い聞かせるように、窓の外をぼんやりと眺め続けた。

 新緑の青葉がまぶしい山々が、電車が進んでゆくにつれ、次第に深緑に、そしてその新緑もとぎれとぎれになり、やがて、ぼんやりと霞のような薄茶色へと変わってゆく・・・そう、冬の枯木へと戻ってゆくことに、退屈しのぎに電車の窓から外の景色を眺めていて気づいた。

 ああ、そうか。北へ向かっているからだ。
 景色が冬に戻っているのだ。

 そう納得する。
 電車はまだまだ進んでゆく。そして、ますます山の中に。
 景色を眺める以外、することもなく、ぼんやりと車窓に目を向けていた。
 右も左もひたすら山ばかりが続く・・・深いカーブをゆっくりとスピードを落とし減速した列車が曲がってゆくにつれ、山の連なりが少しだけ途絶え、山懐に抱かれた小さな家々が町を作っていた。最後の村の景色を見てから、ゆうに2時間は経過している。
 もちろんビルなどは一軒もない。小さな家々の屋根は、どれも瓦ではなく、雪用の赤茶けたスレート屋根だ。

 そんな小さな山間(やまあい)の町の景色をしばし楽しんでいるうちに通過し、再び枯木ばかりの山景色に戻った。
 そうして、またしばらく電車が走り続けているうちに、ところどころ畑らしいものが見えては隠れ、また見えてくる。
 小さな無人駅を、いくつも通過するにつれ、赤や赤茶、そして紅に白、桃色に黄色の花々の色が、妙に新鮮に、そしてあざやかに目に留まってきた。

 なんてきれいな色だろう。
 花には、あんなにも色々な色があったのだと、ふいに思い出す。知っていたはずなのに、今まで忘れていた気がする。
 赤、紅、白、桃、黄色。
 いくつもの花が何度も、姿を見せては遠ざかる。
 けれどもつきることなく何度もまた新しい花が、窓の外に現れる。

 春の国に到着したのだと言う実感が、心の中に入り込んでくるのは、こういう時だ。
 花、また花。
 春の花。
 現れるのは春の花々。

 そうして街から来る特急列車が停車しない小さな駅を通過した次の瞬間、とても大きな・・・薄紅色の滝のようなみごとな桜が目に入ってきた。
 なんて大きく・・・そしてまるで春の化身・・・春の神のような・・・
 満開の花の下に人の姿はなく、ただ美しい花々であふれた木々のみが静かに立っている。これほど見事だというのに、花見客の一人すらいない。
 世間では、すでに季節は初夏だから、こんな山奥に春の花見を楽しみに来る人間など、いないのだろう。
 けれど、春の化身のような巨大な桜の木は、この先が春の国だと、宣言してくれている。否定のしようもなく。
 春の国へ、ようこそと出迎えてくれているかのようだ。そんな春の国への巨大な城門をくぐり抜け、春の国へと入ってゆく。ここからは未だ春の国だ。

 過ぎ去り忘れたはずの季節が戻ってきた。
 忙しい生活の中で、春の花を眺め、楽しむ暇すらなく、見落としてきた時間が戻ってきた・・・と言うか、もう一度、取り戻せるのだ。
 体験できるのだ。
 この列車に乗ってゆく先では。

 もうすぐ・・・もうすぐ、そこでは春が待っていてくれている。
 忘れたはずの春が。

 そう思うと、なんだかとても心が、うれしくなってくる。気分が高揚してくる。
 春はもうすぐだ。
 今度こそ、今年の春を楽しもう。
 心ゆくまで。

      終わり