『銀河鉄道の夜』事件 後編

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『銀河鉄道の夜』事件  後編




 「カンパネルラが僕を裏切った? 裏切ってなんかいないさ。そんなにもすみからすみまで読んで、肝心なところは読んでないんだな。僕が『どこまでも、どこまでも僕たち一緒に行こう』と言った後、カンパネルらがどう答えたか読んでいないのかい? 『ああ、きっと行くよ』って答えてくれたんだよ。今は僕の前から立ち去るけれども、必ず僕の側に戻ってきてくるよと言う意味さ」
 ヨハンは微笑を浮かべながら、目の前に立つ男にそう言い、そこでちょっと言葉を切った後につけたした。
 「・・・まあ、もっともそのことがわかったのは、彼が僕の元に戻ってきてくれた後なんだけれどね。だから、彼があの時、僕の目の前から消えてしまった時には、僕も誤解して嘆いてしまったけれどね」
 ジョバンニは、昔のことを思い出しながら、そう口にした。
 あれからジョバンニの父親も帰ってきて、ジョバンニへのからかいは自然とやんだ。みんなとカンパネルラのグループに戻ることはなかったが、だが昔のようにカンパネルラと二人だけで会うようになった。それは幸せな時間だった。みんなは知らないことだが。
 「は! そうかよ。ジョバンニ君は裏切られてもいないし、カンパネルラを恨んでもいやしないってことか! 俺のお仲間じゃあ、なかったってことか!」
 男は不愉快そうな口調で、吐き捨てるように言った。そうして、くっくっと喉の奥で自嘲的な笑い声を立てている。
 「おめでたいのは、俺だけってことか」
 男の狂気じみた歪んだ表情に、ジョバンニは嫌なものを感じる。もはや男はジョバンニに対して話しかけるのではなく、独り言のようにぶつぶつと呟きはじめた。
 「は! 俺はおめでたい奴さ。自分を殺そうとした奴に感謝して、ずっと取り巻きでいたんだからな」
 「殺そうとなんて・・・」
 ジョバンニは言葉を挟もうとしたが、男はそのままわめくように言葉を続ける。
 「俺は、あやうく奴を溺れ死なせようとした人間として、あれからずっとみんなから白い目で見られてきたんだ。奴の側に感謝している態度でひっついているしかなかったのさ。そうしなければ学校だけでなく、町中の人間に白い目で見られ、人殺しとして扱われただろうからな・・・」
 「・・・ザネリ」

 ヨハンは男の名をつぶやいた。
 ザネリの言葉は、カンパネルラへの憎しみであふれている。おぼれたザネリを助けたカンパネルラ。あの後、ザネリはカンパネルラに感謝して、いつもくっいていたとばかりジョバンニは思い込んでいた。あの事件の後も、ザネリはカンパネルラにずっとくっついていたから。
 それなのにザネリは感謝ではなく、カンパネルラをずっと恨んでいたなんて。ジョバンニには意外だった。
 「すべて、奴が仕組んだことだったんだ。俺をわざと川へ突き落とし、その後、自分で助けようとして溺れて行方不明になってみせたんだよ。俺に人殺しの汚名を着せるためにな」
 ザネリは叫ぶように吐き捨てた。その相貌は狂気で歪んでいる。
 「馬鹿らしい。何のためにカンパネルラがそんなことをするって言うんだ。逆恨みもいいところだよ」
 ザネリのあまりと言えばあまりの曲解に、ジョバンニはあきれてしまう。この男は、あの時からずっと、こんな不幸な思いに捕らわれて生きてきたのだろうか。
 「それがするんだよ。この本を読んで、やっとわかった。なぜ奴が俺に人殺しの汚名を着せて俺を苦しめたのかがな」
 ザネリの目が、ぎらりと光を反射した。
 「どうして奴が、あんなことを俺にしたのかわかるか、ジョバンニ? それはな・・・奴はお前のためにしたんだよ。お前のためにな!」
 「僕?」
 予想もしていなかった言葉に、ジョバンニは思考がついていかない。どう飛躍したら、そうなると言うんだ。
 「僕がどうしたって言うんだ?」
 「奴はな、お前をいじめていた俺に、復讐をしたのさ。あの時、俺はお前をいじめて孤立させていた。みんながお前を馬鹿にするようにした。奴は自分の親友を傷つけた俺を同じように苦しめて復讐するために、俺を陥れたのさ」
 ザネリはいったん言葉を切ってジョバンニを睨み付けるように見た。ジョバンニは、かあっと頭が熱くなり言葉を失っていたが、やっとと言う感じで言葉をつむぎ出す。
 「君の勝手な思い込みだよ。カンパネルラは、溺れた君を命がけで助けたんだぞ。それなのに君は、何でそんな風に考えるんだよ。カンパネルラが人を陥れるようなことをするはずがないじゃないか」
 そう言っているうちに、だんだんとジョバンニは腹が立ってきた。何でザネリは、こんなひねくれた考え方をしてカンパネルラを恨むんだ、と。カンパネルラが助けなければ、あの時ザネリは溺れ死んでいたかも知れないと言うのに。
 ジョバンニの内心の憤りを無視して、ザネリは自分の怒りを吐き出し始めた。何年も何年も溜めてきたものを一気に吐き出すように。
 「あれから奴は、俺をいいように扱った。生殺し状態で何年もの間な。奴はみんなの前では勇気ある立派な少年として振る舞っていた。奴は町の有力者の息子だからな。父親もご立派な博士で資産家だしな。誰も奴の卑怯な姦計に気づきゃしない。だけど俺は、いつもびくびくしていた。いつ奴に捨てられるんじゃないかってな。奴は巧妙に、俺を見捨てるとちらつかせながら、俺が怯えるのを楽しんで眺めていやがったんだ」
 「そんなことを言いに来たのかい?」
 ジョバンニは冷めた口調で、そう言った。
 もうジョバンニは、ザネリの言葉を聞く気をすっかり失っていた。あまりに馬鹿らしいザネリの空想などにつきあう気はなかった。だがザネリは言葉を続ける。
 「いいか、よく聞け。『今だに』だ。俺は今だに奴に頭が上がらない。学校を卒業した後、異国に文筆修行に出かけたきりのお前は知らないだろうがな、奴はこの町一の学者先生で名士様だ。俺は奴に押さえつけられ、邪魔ばかりされて今じゃ、すっかり落ちぶれ果てた生活しかできなくなってるんだ。それもこれも、すべて奴のせいだ。お前も俺をずっと馬鹿にしていたんだろうな。すべての真実を知っていたんだろ、そうなんだろうが」
 「僕を馬鹿にしていたのは君の方だろう」
 ジョバンニは静かに答える。どうでもいいことのように、そっけない口調だった。事実ジョバンニには、どっちてもいいことだった。ザネリのたわごとにつき合う気はすっかり失せていた。早く待ち合わせの場所に行かないと、と時間が気になり懐中時計を取り出そうとポケットの中を探る。
 「奴にとっては、今でもお前が一番大切な親友なんだろうな。今でもまだ俺の邪魔をしているくらいだからな」
 ザネリは、いまいましそうにジョバンニの全身に何度も目を走らせる。
 「さあ・・・」
 ザネリの言葉はジョバンニの耳を素通りしていた。すでにジョバンニはザネリの事など気にしてはいなかった。適当に相槌を打つ。
 「だったら奴に復讐する方法は簡単だよな」
 ザネリは注意深くジョバンニを見つめた。
 「・・・やっといい考えが浮かんだぜ」
 ザネリは、にやりと口をゆがめた。
 「何?」
 ふらりとザネリが至近距離に近づいたことに気づいたジョバンニは、そのただならぬ気配にあわてて、意識を手元の懐中時計からザネリに戻した。
 「死ね!」
 ザネリは顔を真っ赤にして、ジョバンニの胸元につかみかかってきた。
 「何するんだ?」
 慌ててジョバンニはザネリの腕をつかんで外そうとする。だが力を込めているザネリの腕はびくともしない。そのまま押されて川に近づいた。
 自分のすぐ後ろの足元に川があることに気づいたジョバンニは、ザネリが自分を川に突き落とそうとしているのだと分かった。慌てるが、どうしてもザネリの腕は外れない。締め上げてくる力に呼吸も苦しくなってくる。文筆家になった自分とは違い、ザネリは肉体労働をしてきたようだ。ザネリの服の下の固い筋肉は、自分の細い腕ではどうすることもできそうにない。

 「ジョバンニ!」

 自分を呼ぶするどい声の後に、すぐ目の前のザネリの腕に、こぶしよりも大きな石が鈍い音を立ててぶつかった。ザネリは、うっと唸り声を上げて、しゃがみこむように腕を抑える。その隙に、ジョバンニは急いで身をひるがえし、ザネリの手の中から逃げ出た。
 ザネリが追って来ないか確かめるためにジョバンニが振り返ると、しゃがみこむザネリの姿が目に入った。とジョバンニが思った瞬間、ザネリは倒れ込むような動きで、そのまま大きな音を立てて真っ黒な川の中へと落ちていった。
 助けなければ、ととっさに川に駆け寄ろうとしたジョバンニだったが、後ろから腕と腰をつかまれて進めなくなってしまった。何をするんだ、と振り返ったジョバンニは、そこに友人の顔を見つけた。
 ああ、そうか。彼がザネリに石をぶつけて僕を助けてくれたんだな、とジョバンニは瞬間的に理解する。それから川面に目を移し、ザネリの姿を探す。腕を動かせないのか、ザネリは浮かんでこない。早く引き上げないと死んでしまう。そう言おうとしたジョバンニよりも早く友人の方が口を開いた。
 「今度は君が死ぬつもりかい? 川の流れは速いし、水も冷たい」
 そう言って友人は静かな目で、諭すようにジョバンニを見た。そんな目で見られて、ジョバンニはどうしたらいいかわからなくなり、友人に後ろから抱きすくめられたまま、黙って友人の目を見つめ返していた。
 暗黒の闇のように黒い水面は、何の音もしない。
 「彼は・・・」
 やっと我に返ったように、ジョバンニは口を開く。
 「もう無理だろう。ずいぶん時間がたった」
 友人は静かに断言した。それから、ゆっくりと言葉を続ける。
 「遅いから心配して探しに来たんだ」
 あいかわらず背の高い友人は、心配げに彼を見下ろしながらそう言った。成長すれば彼に追いつけるのだと、少年の頃は思っていたが、結局二人の間の身長差は変わらないままだった。
 昔と変わらない、少し困ったような表情をしてジョバンニを見下ろしている。
 「ありがとう。助けてくれて」
 ジョバンニは思い出したように、あわてて言った。
 「いいさ」
 友人は、そっけなく言い捨てると、そっとジョバンニの手を大きな手でつかみ、明るい声で快活に言った。
 「それよりも銀河鉄道の出発時間が迫ってる。早く銀河ステーションに行こう」
 友人にうながされて、銀河ステーションの方に目をやると、遠くの川面には無数の祭りの明かりが反射し星空のように見える。一方本物の星空の方も満天のきらめきだ。
 満天の星々が映る川の上を船で進むのは、上も下も星の明かりであふれていて、銀河系の中にいるような気持ちになる。ジョバンニはこの景色の中を船で巡ったあの日、まるで銀河鉄道に乗っているようだと思ったのだ。それ以来、友人との間ではこの光景を『銀河鉄道』と呼んでいた。二人だけの暗号だった。
 ジョバンニは、友人の大きな手のぬくもりを感じ、そうして自分を見て快活に笑いかけてくれている友人の表情を見ると、いつものように心の中が、ぽうっと暖かくなるのを感じた。どうしてザネリはこの優しい友人に素直に感謝しなかったのか、ジョバンニには理解できなかった。
 いつもいつもこの友人は自分の心を暖かくしてくれる。大切な大切な友人だ。あの時の約束通り、あれから、どこまでもどこまでも一緒に生きてきたのだ。そのことを改めて確認すると、ジョバンニは明るく笑みを返して言った。
 「そうだね。急ごう、カンパネルラ」
 カンパネルラは、少年の頃から大好きな友人の穏やかな笑みが、自分に向けられたことを確認すると、ジョバンニの手を引いて、二人で走りはじめた。


   おわり      


    作中の引用は、宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』 角川ミニ文庫より