天使と悪魔はいつ造られたのか

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・・・天使と悪魔はいつ造られたのか・・・

ユリ・シリーズ


 第一日目。神は初めに天地を創造された。それは混沌と闇の世界であった。
 第二日目。次に光を造った。夕と朝も造った。
 第三日目。空を造った。大地と海とを造った。草と木を造った。
 第四日目。太陽と月、星、季節、日と年を造った。(時間を造った)。
 第五日目。魚と鳥を造った。
 第六日目。地の獣、家畜を造った。人を造った。男と女を造った。
 第七日目。神は休息した。

 「なあ、神はいつ天使と悪魔を造ったんだ?」
 創世記にじっと目を落としていた由良(ゆら)由利(よしゆき)は、窓枠に腰掛けて外を眺めていた友人に、そう尋ねてみた。窓枠の外には緑の木々と黄緑色の芝生が広がって見える。友人は、その長身をかるくひねって由利の方に体を向けた。
 「なんだって?」
 友人は藍色の目をほそめて、講義室の長椅子の端に座っている由利を見下ろした。三十人は入れそうな教室だが、今は二人きりだった。大学院には使われていない教室というのがかなりあるものだ。特に金曜日の午後は、院生ばかりか大学生も少なくなるために、まるで休日のように人気(ひとけ)がない。
 「だから天使と悪魔は、いつ造られたのかなって言ったんだよ。創世記には書かれていないみたいだから」
 バイブルを理解せずに西欧文化を理解することはできないと、最近、由利はバイブルを読むことに凝っていた。別に哲学や西洋文学を専攻しているわけではない。単なる由利の趣味である。二人が通う大学は仏教系なのだが、友人はあえて口を挟むことはない。
 「だったら、いないんだろ」
 「でもバイブルには出てくるけど」
 「人間よりも前に造られたから創世記に書かれてないんじゃないのか」
 友人は、興味ない話題を終わらせようとするかのように、そっけなく答えた。
 「魚や鳥や獣や家畜は、人間より前に造られているけれど、ちゃんと創世記にも書かれているよ」
 由利は創世記に目を落としながら指摘した。
 「最初に天使か悪魔が出てくるのはいつだ?」
 「悪魔とは書かれていないけれど、女をそそのかしてエデンの園の中央の木の実を食べさせた蛇が悪だと言われているね」
 「蛇は野の生き物の中で、もっとも賢い生き物として登場するんじゃなかったか」
 友人は頭の中で記憶を探るように視線を上に向けて言った。
 「そうだけど」
 由利は創世記に目を落として確かめながら答えた。
 「でも悪賢いから悪魔に例えられてるんだろ」
 「神が天使や悪魔を創造したのではないとすると、悪魔とか天使って単語は、何かの例えかもしれないな」
 友人は窓の外に目を向けながら言った。かすかに鳥の声が聞こえてくる。
 「何の?」
 「ユリ、自分で考えようって気は起こらないのか」
 きつい言い方ではなかったが、友人は由利の方を振り返って言う。ユリと言うのは由利(よしゆき)の名を読みかえたものである。友人はなぜか由利(よしゆき)のことをユリ
と呼んだ。
 「わからないから聞いているんだろ」
 由利は、少し興奮して友人を見上げた。
 「しかたがないな」
 友人は軽くあきらめたようにため息をついた。いつもこんな力関係の二人なのである。友人のほうが頭は切れるが、由利に聞かれると考えざるを得ない状況に追い込まれて、結局、問題を解くはめになってしまうのが、いつものことだった。
 「ちょっと貸してみろ」
 友人はそうぶっきらぼうに言うと、由利の手元から創世記の本をつかみとり、自分の胸に引きつけるようにして読みはじめた。時折、何かつぶやいては納得したようにうなずいている。
 それから目を上げ、由利を見た。
 「やっぱりそうだ。いいか、ここにこう書かれてる。『女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので彼も食べた』」
 友人は、いったん言葉を切り、由利が聞いているかを確かめるように見返し、由利の視線を捕らえると再び口を開き始めた。
 「『いかにもおいしそう』だと思ったのは『女』だ。後のエバだがな。つまりエバは、食べたいという感情を起こしたんだ。『賢くなるようにそそのかしていた』のは木でも蛇でもなく、エバ自身が賢くなりたいと思ったんだ。エバが感情を起こしたことが、ここには書かれている。それから感情のままに行動したと言う結果が書かれている」
 「それで?」
 由利は先をうながした。
 「感情は支配することができないってことさ」
 友人は感慨深げに目をほそめながらつぶやいた。
 「エバもアダムも自分の感情のままに動いたと言うことかい?」
 「そうだ。しかも自分の感情を蛇(他人)のせいにしている。人間のかわらない姿さ。いや、まさに人間そのものの姿だな。誰が書いたのか知らないが、うまく書いている」
 「だけど蛇が二人をそそのかしたんだろう」
 「蛇は情報を提供しただけさ。その木の実を食べるとどうなるかってことをな。野の生き物のうちで最も賢いと言う設定だからな。馬鹿が情報提供したって、無視されるだけだろ」
 友人は両目を閉じて軽く言い流した。
 「じゃあ実を食べた後、確かに知恵はついたんだな」
 「知恵がついた上に、自分の感情のままに行動するようになってしまった。いちじくの葉で腰をおおったのは、恥ずかしいから隠したいと言う自分の感情のままに行動した結果だな」
 「じゃあ悪魔と言うのは、結局蛇のことなのかい?」
 「違う。感情のことだ。人間が支配することのできない感情を、悪魔に例えたんだ。支配できない感情に従って行動すれば、身の破滅だという例え話だろうな」
 「じゃあ天使は、何なんだ?」
 「悪魔のすぐあとに出てくる。神は我々人間を見捨てなかったと言うことだな。感情は支配できない。支配できない感情だけで行動すれば人間は破滅する。しかし感情は次々と沸き起こってくる。では人間は感情とともに破滅するしかないのか? いや、神は慈悲深いみたいだな。ちゃんと支配できない感情への対応方法を二人に教えている」
 どこかおどけたような、面白げな口調である。
 「どこに?」
 もう生き物は出てこない。
 「『土に返るときまで、顔に汗を流してパンを得る』」
 友人は再び手元の創世記に目を落として読んだ。
 「どういうことだい?」
 「つまり、どんな感情が起ころうとも、生きるために死ぬまで繰り返される日常の労働を行い続けろってことだ」
 「まだわからないよ」
 「だから、どんな感情が内心で起こっていようと、肉体には日常生活を続けさせろって言ってるんだろ。感情は起こるままにほっとけってことさ。所詮、人間には感情は支配できないものだからな。だが肉体は人間にも簡単に支配できる。内心がどうあろうと強制して動かすことが可能だ。つまり日常の行動が天使の例えと言うわけだな」
 友人は言いおえると由利に創世記を返した。
 由利は友人の言葉を咀嚼しているのか、しばらくぼんやりとした表情のまま、頭を働かせることに集中した。
 感情は支配することができない。だから悪魔に例えられた。
 行動は支配することができる。強制することもできる。だから天使に例えられた。
 悪魔とは支配できない人間の感情を比喩したもの。
 天使とは支配できる人間の行動の比喩。
 沸き起こる感情は人間にはどうすることもできない。支配されるだけ。感情という悪魔に支配されれば、感情のままに肉体を動かせば、人間は破滅する。
 ではその悪魔に、どうやって人間は対抗するのか。悪魔は、初めから人間に勝っている。人間は悪魔に、感情に支配されていると言うのに。
 その答えとは、どんなに悪魔に感情を支配されていても、行動を統制すること、日常を送り続けることで悪魔に唯一対抗できる方法なのだろう。この行動の統制が天使と言う言葉で表されていることなんだ。
 由利は、ふいに何かひらめいたらしく、再び外を見ていた友人に声を掛けた。
 「そうか。だから天使には階級があるんだな」
 由利は、つぶやくように言った。
 上級三天使は、神の愛、知恵、正義を表している。
 愛と知恵と正義に基づく行動をすべきことを示していたのだろう。中級三天使は、神の意思を行動にうつす、悪魔と戦う。神の美徳を守る。悪魔と戦う。という任務を持っている。愛と知恵と正義に基づいて悪魔と戦うために、行動を取ることを示しているのだ。
 下級三天使は、地上の国を守る兵士、無垢にして善なる者を守るのを任務としている。愛と知恵と正義に基づいて悪魔と戦うために、行動を取ることによって、地上の国すなわち自分自身を守る方法を示しているのだろう。無垢なる者とは、悪魔に支配されて感情のままに行動しない者でいる者のことだろうか。とにかく、あくまでも天使は行動することを示しているのだ。
 一方悪魔は、人間のあらゆる欲望という感情を支配するものとして名前がつけられている。悪魔には統制された世界はない。
 悪魔の能力は、あらゆる種類の人間の欲望を実現する能力だ。たとえば、あらゆる事柄に通じている。過去、現在、未来のすべての事柄について話すことができる。財宝を見つけ出すことができる。富を与える。秘密を探り出すことができる。などなど。無数にして尽きない。これらの悪魔の能力は、どれも人間の欲望をあらわしている。
 「だから、天使の階級はすべて行動すべき任務によって分けられていて、悪魔の地位はすべて能力によって分けられているのか」
 由利は納得したように頷いた。少しばかり放心したように感心している由利の態度は、毎度のことなので、友人は由利が正気に返るまで、再び窓の外に目を向けていた。
 由利は一度に入ってきた知識をゆっくりと咀嚼しているのか、うつろな表情でぼんやりとしていたが、しばらくして、ふいに何かを思いついたらしく、がばと友人の方に顔を向けて言った。
 「じゃあ感情は悪いことなのかい?」
 友人はあわてる様子もなく、ゆっくりと由利を見返した。
 「そんなことは誰も言っていないさ。ただ感情は支配できないと言っているだけだ。誤解するな。そうだな、たとえば腹を立てた場合、腹が立っている気持ちは抑えられなくても、相手を殴らないですますことは、何とか普通の人間には可能だ。殴ろうとする自分の行動を制御することはできるからな。どんな感情が起ころうとも人間の責任じゃない。だがその結果起こした行動は、その人間の責任だろ? つまりそういうことだ」
 「なんで感情は、悪魔に例えられるほど悪く言われているのかな」
 「支配できないからだろ」
 由利はわからないと言うように、友人を見返した。そんな由利の視線を受け止めた友人は、言葉を続けた。
 「喜びも悲しみも、怒りの感情も人間は支配できないから、うっとおしい、煩わしいと思って、思いどおりにならない感情を疎ましく、恥じて、しまいには怯えたんだろ。だから悪魔なんて名称になったんだろうな」
 「人間の体の中は悪魔だらけと言うことか」
 由利は、軽くため息をついた。そんな由利のようすを横目で友人は眺めやった。
 「そう落ち込むことはないさ。天使を制御できるのは人間。人間を支配しているのは悪魔。悪魔を封印できるのは天使ってことだからな」
 なぐさめているのか、そんなことを言う友人を由利は見上げた。
 「理屈ではわかったれど、行動もなかなか制御できそうにないなあ」
 「だからこそ天使なんだろ。神を信ずる者の側には、常に天使がよりそう。いいネーミングだ」
 友人は、にやりと笑った。
 「君なら、簡単に制御できそうだな」
 由利は、頭の切れる、とらえどころのない落ちついた友人を皮肉った。
 「堕天使にならぬように気をつけているよ」
 意外なことに友人のその声は憐れみ深い響きを持っていた。この強い友人にも、何か行動には出さない感情を持っているのだと由利は感じた。
 「天から落ちた場合、どうしたらいいのかな」
 今まで自分の支配できない感情と言う悪魔に支配されたであろう数多くの人間のことを思い浮かべながら由利は聞いてみた。支配できない感情のままに、悪魔に魂を売ってしまった人間に、救いはあるのかと。
 「再び単調な日常生活を営み始め、続けることだな。そこに幸せがある。いくら暴れて
も悪魔は永遠に支配できないものだからな」
 友人はそう言うと、窓枠から身を起こした。


          終わり



ユリと藍色の目の同居人の生活を、もっとのぞいてみたいと言うあなたは